「燦」(サン)掲載エッセー

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平成方丈記 M田隆道   06年4月号〜

なまはげの里から 荒尾美代   05年10月号〜06年2月号

ロンドンから おちあいはな   04年10月号〜05年9月号

ギリシャから ド・モンブラン・むつみ   03年10月号〜04年9月号

ボストン便り 椎名梨音

ルーマニア紀行 石原道友

ブレーメン便り 宇江佐 湊

オランダ事情 益川みる

ロンドンの掟 石関ますみ

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ルーマニア紀行 石原道友

※原文のルーマニア語標記の部分は、カタカナで統一しました。

マリャ・ニャグラ -02.03

 今年からルーマニア入国に際してビザが必要なくなり(90日まで)、思いたてば明日にでも行ける状況になったことをお知らせする。
 ルーマニア紀行の最終回として、ゾナ・マリャ・ニャグラ(黒海沿岸)を紹介しよう。
 ブカレスト北駅から急行で東へ3時間。黒海沿岸の玄関口コンスタンツァ駅に到着する。
 途中、ワラキア平原を通過していくのだが、行けども行けども地平線の彼方まで小麦畑の緑が海のような広さで迫ってくる。ルーマニアでは農業国である。
 線路に沿って並行に走る一本道の上を走る車に、追いつき追い越されながら電車の旅は続く。その道路の両側にはポプラ並木が整然と立ち並んでいる。
 ロマ人(ジプシー)一家の馬車が時とり目に入る。手を振りながら電車に向かって声をかけてくる子供達。あまり人の姿が見られない、のどかま田園風景である。
 コンスタンツァ駅から10分ほどでビーチへ到着。ルーマニア国内で第一級のリゾート地帯である黒海沿岸は、北はママイアから南はブルガリア国境近くのマンガリアまで、70キロに及ぶ長い海岸線を持つ。
 車で2時間ほどかけて海岸線を走ってみたが、歴史上ギリシャ、ローマの影響下にあったことを忍ばせる遺跡があちらこちらに残っていた。
 町の名前はネプチューンやジュピターなど、ギリシャ神話に由来するものが多い。5月下旬から6月初旬にかけて、多くの高級ホテルがオープンし、西ヨーロッパからこぞって人々が押し寄せて来る。
 駐車場にはベンツ、プジョー、アルファロメロなど、高級ヨーロッパ車が勢ぞろい。200席ぐらいあると思われるレストランも満席だ。ルーマニア人の多くは長期滞在ができなくて、日帰りで帰るという。
 海を眺めながら軽い食事をしたいなら、ベーレ・シ・ミチ(ビールと粗引き肉を一口サイズにしてあぶり焼きにしたもの。ミチはビールのつまみの定番)だ。
 そして、海を眺めると同時に目に飛び込んでくるのは、フェーテ・フルモアーセ(美しい女性達)。
 ルーマニア人女性は美しい人が多い。しかも開放的で、海岸では上半身裸であることも付け加えておこう。
 太陽は高く、日差しはそれほど強くはない。湿度は低く、日陰に入ると涼しい。
 3日もいれば日に焼ける。様々な国の言葉、音楽が聞こえてくる。
 海は山よりリラックスできる。
 ムルツメスク・フォアルテ・ムルトゥ。ラ・レヴェデレ(大変ありがとう。再会を期して、さようなら)。
(自由業)

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ヴァ・ログ -02.02

 ブラショフの中心から南西約30キロ、タクシーで45分程で、かの有名なトゥランシルバニアの吸血鬼ドラキュラ居城ブラン城へ到着する。タクシーの運転手を食事付きガイドとして雇った。
 周りの景色は、やはりフルモス(美しい)である。プチェジ山麓の深い緑に囲まれ、その静けさの中、ブラン村の山上に聳え立つブラン城。典型的な中世の城砦である。
 城壁の修復工事をしている。崖に城が切り立った形で建っているので、修復は難儀そうである。
 一番高い塔は、なぜかドラキュラの顔のように見える。ドラキュラは「串刺し公」の異名を持つワラキア王ヴラド1世の孫がモデル。トルコ軍を迎え撃った英雄の子孫である。ルーマニア人にとっては、吸血鬼ドラキュラの異名は甚だ遺憾のようで、躍起になって史実を説明しようとする。
 ブラン城は城砦なので外観そのものはそれほど美しいとは言えないが、どこか雰囲気がある。内部は薄暗く、廊下も階段も狭く、天井は低い。そして忍者屋敷のような迷路だ。床からは歩くたびに軋み音が…。
 他の観光客がいなければ心細かったであろう。案内人はルーマニア語で説明をするだけなので、想像力で理解しようと努めた。拷問道具の展示、地下牢。この城で拷問された人の悲鳴は、城内部はもちろん、時を告げる鶏の声のように城外四方に響きわたり、人々を眠りから呼び覚ましたであろう、と想像した。
 城から出て坂道を下りブラン城入り口の露店の土産物売り場でタクシーの運転手と合流した。食事付きの約束をしていたので、彼もそれを待っていたらしい。迷わずレストランに直行した。少し遅い昼食である。
 一般的にルーマニア人は昼食に時間をかけ、たくさん食べる。食前酒としてツイカ(プラム酒)を飲む。強い酒なのでショットグラスで。
 ヴァ・ログ+名詞で「〜をください」となるので、注文は簡単だ。「チョルバ・デ・ブルタ」チョルバは温かく酸味の利いたスープ。デは〜の、ブルタは牛の胃袋(モツ)だ。
 他に「チョルバ・デ・プイ(鶏肉)」「チョルバ・デ・ペリショオアーレ(ミートボール)」が代表的でよく食べられる。
 好みに応じてサワークリームを溶かして込む。注文前からプイネ(パン)が運ばれてくる。チョルバとプイネだけでも結構なボリュームだ。
 メインデッシュとしてルーマニア料理の定番サルマーレ(酢漬けのロールキャベツをトマトソーすで煮込んだもの)と、その付け合せに、これも定番のママリガ(トウモロコシの粉に牛乳とバターを加え、よく練ってから煮たもの)を注文する。サルマーレの赤とママリガの黄色の彩りがきれいである。
 ドラキュラ公もブラン城内できっとこれらルーマニア伝統料理を、と思いを馳せながら食した。
(自由業)

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フルモス -02.01

 シナイアからさらに北へ1時間あまりで、トランシルヴァニア地方の南東に位置するブラショフ駅に到着する。ブルショフを形容するにはフルモス(美しい)が最適である。ドイツ語からの借用語ということだが、町は12世紀にドイツ商人が建設した。
 フルモスをルーマニア語の1単語として最初に覚えると言っても過言ではない。天候も景色も中世の町並みも、全てがフルモスである。ただし、ルーマニア語の形容詞は性・数・格変化があるので、ここでは辞書の見出し語の基本形としてのフルモスを使うことにする。
 ブラショフの町の中心は駅から車で10分ほど。メインストリートのリプブリチ通りは、ザッヘ(ドイツ語で石畳)の歩行者天国である。その両側の建物は45度の急勾配を持つ赤茶色の屋根、軒はなく、外壁の色は赤・緑・黄色などの鮮やかな原色で、隣同士は同じ色を使わない。十字架をかたどった窓など、まさにドイツの町並みだ。
 通りの西の突き当たりにスファトゥルイ広場があり、そこでパパナッシュというブラショフ名物のドーナッツのようなものを食す。すると、すぐそばにあるビセリカ・ニャグラ(黒い教会)から、結婚式を挙げたと思われる一行が出て来た。黒の教会は町の中心に立つトランシルヴァニア最大の後期ゴシック教会で、1689年にハプスブルグ家の攻撃に遭い、外壁が黒焦げになってしまったことからこの名がある。
 ブラショフは、町の景観を一望できるところまで登って見ると、さらに良い。そのためにはポイアナ・ブラショフへ向かうことだ。ポイアナとは、森の中の草原を意味する。ブラショフの南西約13キロ。標高1000メートルの高原である。その途中で俯瞰的にブラショフを見ることができる。イェ・チェル・マイ・フルモス(さらに美しい)。
 これは比較の最上級だが、ルーマニア語はさらに絶対最上級を持っており、他に比べる必要もなく美しいと言いたい時には、形容詞のフォアルテを付けるとよい。イェ・フォアルテ・フルモス。それがポイアナ・ブラショフと言えるだろう。
 ポイアナ・ブラショフは国内有数のリゾートである。標高約1800メートルのポシュタバル山麓に位置する避暑地で、スキーや登山など様々なスポーツが楽しめる。そしてルーマニアのトラディショナルな料理も。
 シューラ・ダチロール(ダキアの小屋)と総称されるレストランの中で、一番の雰囲気をもつのが、コリバ・ハイドゥチロル(山賊の隠れ家)だ。薄暗い店内の壁には熊や鹿などの首の剥製が飾ってあり、それらの肉を客が食す。熊も鹿もその辺りで捕獲したそうである。翌朝、生々しい熊の足跡を発見した。熊が人間を食すこともあると聞いた。
(自由業)

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イエ・アエル・クラット -01.12

 ブカレストには4つの鉄道駅があるが、うち国際列車と国内の主要列車が発着するのは、「ガラ・デ・ノルド」(北駅)。喧騒の中に危険が見え隠れする駅である。
 危険の意味は、やたらに見知らぬ人が寄ってくるということだ。
 駅の構内に入るだけでも有料で、マクドナルドと有料トイレが印象的である。どれくらいの人種がこの駅にいるのかは不明だが、日本人にとっては国際空港並みに国際的である。
 この駅から北へ向かってシナイアへと出発する。特急で1時間半、ルーマニアで最も美しいといわれるシナイア駅に到着する。
 小さな駅で、内部に天をかたどるドーム型の天井を持ち、声が心地よくこだまする。その中で初めて老夫婦の日本語に出会った。
 ルーマニアにとって特徴的な地理上の要素は、カルパチア山脈、ドナウ川、そして黒海。シナイアは2,000メートル級の山々が連なるカルパチア山脈の中、プチェジ山の中腹に位置する標高800メートルのリゾート地である。「カルパチアの真珠」の愛称を持ち、夏は避暑地、冬はスキーリゾートとして1年中観光客で賑わっている。小さな町なので、1泊あれば徒歩で町全体の名勝を見ることができる。
 シナイア駅を出ると、真正面に木々に囲まれた石造りの急な階段があり、この階段を上がるとメインストリートであるカロル1世(19世紀にドイツから招かれルーマニア皇帝になった人物)通りに出る。この通りを南西へ30分ほど歩いただけで、シナイアの町を出てしまう。
 カロル1世通りで、3ツ星ホテルの「インターナショナル」を宿泊先に決めた。1泊朝食付きで4,000円ほどのツインの部屋。ルーマニアでは、あまりシングルの部屋はない。「ムルファトラー」というルーマニア産ワインを1本飲む。
 参考までに、部屋のことを「カメラ」と言う。「空き部屋はありますか」は「アベッツ・オ・カメラ・リベラ」だ。
 シナイアと言えばペレシュ城に尽きる。1875年、カロル1世がルーマニア王室の夏の離宮として、8年の歳月をかけて造営させた宮殿である。
 ルネッサンス、バロック、ロココの各様式を取り入れたドイツルネッサンス建築で、現在、ドイツが買いたいとまで申し出ている建物だ。
 入場料を払い城内に入ると、ガイドが英語で説明しながら各部屋を案内する。部屋数は160あると言われる。たまたまルーマニアの小学生の修学旅行の一行と一緒に見学をする幸いを得た。
 しかし、それ以上に私の心をとらえたのは「イエ・アエル・クラット」(澄みきった空気)。これがシナイアの町全体に感じられる一番の印象である。
(自由業)

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アパ・カルダ -01.11

 ルーマニア語入門の第1課に出てくる「イエ・アパ・カルダ?」(熱いお湯がありますか)。今思うとなんと実践的かつ現実的な幕開けだと感心する。
 ブカレスト市街には大小さまざまな湖、サッカー好きな少年達のための大きなグラウンドがたくさんあり、それらが豊かな緑に取り囲まれている。
 そして11階建てほどの、おそらく1棟あたり150世帯以上はあると思われる、画一的で巨大な住居群もまたその中にある。ルーマニアの知人の住所がやたらに長い訳を理解できる。
 私が宿泊先としたのはそれらの1画にある普通の人の住まい。その居住者が長期不在のときに旅行者に安い値段で貸し、使用しているもの全てがそのままで、同様に使用してよいという非常に開放的なものである。
 ここで一番困ったことは、「ヌ・イエ・アパ・カルダ」(お湯がない)ことだ。
 5月下旬から6月初旬にかけて急に温度が上がり夏が訪れる頃、町の話題は「イエ・アパ・カルダ?」。昨日まで出ていたお湯が突然予告なしに止められてしまい、町は騒然となる。
 お湯の蛇口をいくらひねっても空回り。故障ではないので要注意。日本人としては水シャワーだけという訳にもいかず、鍋で何回も湯を沸かし浴槽に入れ、漸く風呂に入る。
 水(アパ)は無料だと聞いたが、最悪の場合止まってしまったことがあり、部屋を変えてもらった。水の流れも悪く、トイレにいたっては詰まったままの状態に何度も遭遇した。安心して使用できるのは有料トイレ位なものか。
 水道の水を飲み水として直接利用する人は少ない。ミネラルウォーター2リットル位のボトル瓶を買わなければならない。水をめぐって不便さを感じる。
 1989年12月22日の革命以降、この国には全てのものが揃っているのだが、何か違和感がある。それは技術的な完成度の低さであろうか、壊れてしまった物をなかなか直せない貧しさか。
 例えばボイラー給湯を使用しているホテルでもお湯が出るまでかなりの時間を要する。新築の建物でも建付けが悪い。鍵は空回りする。鏡は歪んでいる。ベッドは体が沈んでゆく。
 1500ccクラスの「ダチア」(ローマ帝国支配106年以前のルーマニアの先住民)という国産車には、エアコンも灰皿の取手もないものが多い。
 それでも人は優しい。犬を大変好み、野良犬であっても餌を与え可愛がる。
 夜になると1匹の犬が鳴きだし、巨大な建物群の中でこだまする。あたかもブカレスト中の犬が鳴きだしたかのように。そしてサッカー好きの少年達の元気な掛け声がこだまするとき、ブカレストは朝を迎える。
(自由業)

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チェ・ファチ -01.10

 所用でルーマニアに1ヵ月ほど滞在した。日本人にはあまり馴染みのない国なので、思い付くままに同国のことを書いてみることにする。
 「チェ・ファチ?」(お元気ですか)で始まるルーマニア語の挨拶に対する返事は「ビーネ」(元気です)である。東欧の旧社会主義国の中で唯一のラテンの国ルーマニア。その民族性は明るく、陽気で人懐っこい。そして歌とダンスをこよなく愛している。
 タクシーの中では運転手と乗客が、電車の中では見知らぬ者同士が、乗り込んでから降りるまで、あたかも友達のように話し続けている。町の中でも同様、大変な話好きで、エネルギッシュこの上ない。彼らの前でおとなしくしていると「チェ・イク・チーネ?」(どうしましたか、病気ですか)とたずねられ、答に窮して「うーん」とうなっている間に、本当に病気にされてしまいそうだ。
 ルーマニアの正式名称は「Roma(aの上に^)nia」と書いて「ロムニア」のように発音する。ルーマニア語の発音は日本語のローマ字とほぼ同じなので、とても簡単である。「A」と書いてあれば「ア」と発音すればよい。ロマンス系言語、とりわけイタリア語・スペイン語を学習した人なら、さらに親近感を抱くことだろう。
 英単語も数多く見られるので、英語既習者には単語を覚える手間が少し省ける。問題は、ルーマニア(語)に関するテキスト・情報が極めて少なく、入手しがたいことだ。同様に、ルーマニアには日本に関する情報がほとんどない。
 さて「喜びの都市」の意味を持つ首都ブカレストは、かつては「バルカンの小パリ」と呼ばれ、美しい町並みを誇っていたという。人口は約207万人、総人口の10分の1が住んでいる。ちなみに国土の面積は日本の5分の3である。
 日本からルーマニアへの直行便はない。国際空港のオトペニ空港はこぎれいで、ブカレストへは南に10数キロ。空港から旧市街へ向かう道路沿いには田園風景が広がり、渋滞もなく快適だ。
 しかし、凱旋門をくぐり市内に入ると環境は一変する。車の数が激増し、それに伴う騒音・排気ガスには恐怖を感じるほどだ。中心部に近づくにつれ道路の幅が異様に広がり、かの有名な「国民の館」前に至っては、まるで広場である。
 道路はあちらこちらが陥没していて、境界線が引かれていない。おまけに信号の設置数が圧倒的に少なく、どの車もかなりのスピードを出しているので、非常に危険だ。
 車は古いものが多く、傾いて走っているものもある。道路沿いの建物は骨組みだけ残して、部屋の部分が空洞になっているものもよく見かける。
 こうした光景は、この国が置かれている状況を端的に示していると言えるが、それでもルーマニア人は元気である。
(自由業)

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ブレーメン便り 宇江佐 湊

ブレーメン

 ブレーメンと言えば、日本人が連想するのは「ブレーメンの音楽隊」だろう。だが他には?と訊かれても後が続かないのではないだろうか。
 当地をのどかな田舎と想像する人もいるかもしれないが、実際はそこそこの規模の街で、音楽隊の銅像は広場の隅っこにちょこんとあり、探さないと見つからない。ここで注目を浴びるのは音楽隊の銅像ではなく、堂々とした教会やハンザ都市としての面影を残る旧市庁舎、広場に鎮座する騎士ロラントの像である。ロラントとは、昔キャラバンの最後尾を守って進む途中、敵を発見し、危険を仲間に知らせて死んだ英雄なのだそうだ。
 これらの美しい建造物は素直な感動と当地に住む喜びを感じさせてくれるが、素晴らしいのはこれらだけではない。市民公園がそれだ。
 この広大な公園は人間の手で見事に管理された森林で、高さ10メートルはあろうかという木々や小川、大きな池がある一方、どの道も枝や葉が散策する人間の邪魔をすることはなく、絵のような美観を保っている。
 平日はほとんど人の来ない静かな空間で、木洩れ日や太陽を反射して輝く池、フワフワした小鴨を眺める時、この地に住むことがなければ一生知らない風景と贅沢だったことを考え、幸せに浸ることもしばしばだ。
 一方、最初は緊張していたアウトバーンの高速走行で、時速100キロは徐行運転だと思うようになってくると、少々知識も増えてくる。ドイツが誇るゴミのリサイクルシステムが、実はあまりうまく動いていないとか、鉄道では座席予約を勝手に変更しておきながら、本人が車掌を探して訴えない限り何の処置もされない事、医者が専門に分かれているので外科にかかれば外科の処置のみで、内在する危険を考慮した検査などはあまりしてくれない事などだ。
 しかし今日のような日はそれらを忘れる。前々から気になっていた洒落たデリカに思い切って入ってみたのだ。中ではスマートでお洒落な中年女性が4人、キリリとした揃いのシャツとエプロンに身を包み、テキパキとした態度の中にも楽しそうに働いていた。
 食べたことはないけれど、いかにも美味しそうなウインドウに飾られているサラミソーセージと生ハムの塊の名前を言って包んでもらい、浮き浮きと帰宅。一緒に買った黒パンに乗せて試食をしてみた。ああ、美味!サラミは外側の皮がパリ!生ハムは香ばしく味わい深い。これからは週に1度、あのお店に通おう。不親切な医者がいるって?親切で優秀な先生だっているんだから。ゴミのリサイクルが完璧じゃない?理論では正しいんだし、省エネルギーではやっぱり先進国なのよ。
 サラミと生ハムで社会問題を一瞬にして忘れてしまう私は、政治家におよそ向いていないが、ブレーメン良いとこ1度はおいで、と心を込めて謳えるのだ。
(ブレーメン在住)―今回で終了します。

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変化

 先日、久し振りにオランダのロッテルダムを訪れた。この町は戦争による甚大な被害の後、近代都市の道を歩んだ。
 そのため以前から近代的な高層ビルが多かったが、新しいビジネスビルやホテルがグンと増えており、工事中の現場もたくさんあった。オランダが今、ヨーロッパで一番活気のある国と言われていることが実感された。
 スーパーマーケットでもブレーメンではお目にかかれない様な種類豊富な果物、バリエーション豊かな食品、惣菜の数々が並んでいる。
 日本からロッテルダムに移り住んだときはファッションに幅がなくてつまらないと思ったのに、この数年でデザインが豊富になったのか、それとも久々に見るからか、とにかく華やかで楽しい。
 普段手に入らない塩味のポップコーンや果物を2種類以上ブレンドしたジュース、癖のある香辛料入りサラミを買い、ブランド物のアクセサリーを見て楽しく過ごした。アップルパイを買った店の少年には、「有り難う、マダム。良い週末を!」と英語で声を掛けられ、オランダの英語教育の成果、そして商売用だとしても嬉しい明るい挨拶に、かつて住んだ町への好感が沸き上がってきた。
 一方、危険地域でなくても繁華街の一人歩きは少々緊張を感じる。入れ墨をしたコワオモテの男性、集団で行動するだらしない格好の少年たち、薄汚れ、明かにドラッグをやっている人がいるからだ。基本的には素朴で親切な人が多いので、自分がひどい目に遭うことはまずないと思うものの、ブレーメンでは殆ど感じない緊張を覚える。
 こうして刺激的な時間を過ごしてブレーメンに帰ってくると、町の中を流れるベーザー河の岸辺に、短い夏の長い夜を楽しむ人たちがたくさん集まっていた。その光景はロッテルダムとは少々違う。ラフで刺激的な格好の若者たちが多くを占めていたのに対して、こちらはフォーマルに近い正統派ドレスアップを決めた中年カップルもいるし、若い人たちも概して行儀が良く、清潔感のあるお洒落をしている。
 しかし、ここにも変化はある。この2年ほどで若者のマナーが少し悪くなった気がするし、10年前に比べると町にゴミが増えて汚くなったそうだ。有色人種が増え、店に並ぶ果物や野菜の種類も徐々に増えている。
 一方、家電製品や台所の流しの使い勝手は相変わらず悪く、素晴らしく美しく広大な森林公園やソーセージの旨さもまた相変わらずだ。
 変わってほしい事、変わらずにいてほしい事。変化が速いもの、遅いもの。未来をより良いものにしたいという願いは皆同じでも、個々の願いも同じということはない。
 この2年で感じた変化はこれからも続くに違いない。10年後、20年後のブレーメンが果たしてどのような町になっているのか、恐らくその頃には当地に住んでいまいが、期待と不安をもって、この目でみたいものだと思う。
(ブレーメン在住)

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さらばマルクよ -01.07

 ドイツに来て早いもので2年が過ぎた。日常生活で目新しい出来事は何もなくなってきたが、先日初めて200マルク札というのにお目にかかった。
 まだあまり人の手を経てないらしく折り目もなく綺麗だ。これまで1度も見なかったということは、さてはどこぞの国のミレニアム記念と同様に新たなに印刷された新札か?と思いきや、どうやら札自体は以前からあったものの、ほとんど流通していなかったらしい。
 推測だが、来年に迫ったユーロへの切り替えを前にして、古い紙幣やストックされていた紙幣が放出されているのではないだろうか。私自身は気付かなかったが、夫は時々ボロボロの紙幣に出会うこともあるらしい。200マルク札についてはあまり便利でなかったのか、これまであまり流通していなかったようだ。ユーロが定着する頃には、どうせマルクはほとんど換金されてしまうのだろうから、今更札を放出する意味がどの程度あるのかわからないが。
 しかしそうか、このお札は、否、全てのマルクは消えてしまうのか。併用期間が多少はあるものの、それが終わればユーロばかりが使われるようになる。そう思うと急に惜しくなり、使うのがもったいなく思えてきた。
 早速、記念に少しでも綺麗なお札を1枚ずつ取っておこうと手持ちのマルク札を並べてみた。日本円と違って種類によって色を変えてあり、多色刷りで見やすい。偽造防止のためかと思われる銀線が入っていて美しい。これまでも住んだ国はもちろん、旅行先で手に入れた現地通貨の一部を手元に残して記念品代わりにしているので、ついでに全部並べてみた。
 カラフルで美しいという点ではオランダのギルダーが文字通り出色で、まるで子供銀行のおもちゃの札みたいに明るい色使いに加え、複雑な多色刷りと模様で目を楽しませてくれる。
 イギリスの2ポンド硬貨は硬貨の中でも特にお気に入りで、金と銀のコンビネーションが美しい。スコットランド以外ではほとんど流通していないスコットランド銀行の札は、地味ながらも彼の地を旅行した証しだ。
 しかしニコニコして思い出に浸っているところで、ふと現実にかえった。200マルクは現在の為替レートで1万円を超える額である。札の種類は他にも100マルク、50マルク、20マルク、10マルク。全部で2万円分ぐらいになる。これに取っておいたギルダーを加えると、当然ながら更に金額は大きくなる。
 ギルダーは記念品として割り切ったつもりなのに、ここでマルクと合算してしまう自分がなさけないが、ちょっともったいないような…。
 2年前、ドイツでの新生活のために日本で用意した現金の中に1000マルク札というのがあったが、これはさすがに使ってしまった。それに比べればこのぐらいはいいじゃないかと思いつつ、カラフルなお札を握りしめてブルブル震えているこの頃である。
(ブレーメン在住)

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古城ホテル -01.06

 フッフッフッ。背中を丸めてほくそ笑んでいるからといって、別にどこかがプツンと切れたわけではない。ヨーロッパに来て苦節(?)4年。とうとう憧れの古城ホテルに泊まったのだ。
 昨年末、ポツダム会談の場であり、一部が古城ホテルとなっているツェリエンホフ宮殿を初めて見た。その時からいつか泊まりたいと思っていたが、緑が美しい今の季節、日本からの友人が来たことでチャンスが到来したのである。
 忙しい夫には申し訳ないが、彼も多忙にかまかけて妻に少し後ろめたい。駐在員の妻がノイローゼでキッチンドランカーになったなどという話をために聞いてギクリとするのか、若い女性が遊びにくるのが嬉しいのか、恐らくその両方から機嫌良く許してくれた。
 早速パンフレットを見ると、普通のツインの部屋は狭く、内装もビジネスホテルと変わらないので、思い切ってジュニア・スイートを予約した。
いよいよ当日。見覚えのある林に入って行くとイギリス風の屋敷が明るい緑の中から現れた。
 受け付け後、質素ではあるが重厚な屋敷の階段を上がり部屋に入った。
 豪華とは言えない。しかし広さは十分以上に広いし、ヨーロッパの古くて優雅な屋敷の味わいが確かにあった。バスルームにはバスローブとホテルのマークの入ったパイル地のスリッパ。友人のN子は大喜びである。
 彼女はそのスリッパをじっと見つめ「これ、もらえるのかな?」と呟いた。恐らく使い捨てであろうと思われたが、バスローブは明かにお持ち帰り用ではない。となると、並べて置いてあるスリッパにも若干の不安が残るではないか。
 N子が受付で確かめてくるというので、私はスリッパを持っていくように言った。田舎のホテルではレセプションとは言えども、英語が完璧と言えない場合が多々あるが、現物を見せれば間違いないと思ったのだ。
 スリッパを持って廊下を歩くのを恥ずかしがったN子はジャケットを腕に掛け、その中にスリッパを忍ばせた。
 数分後、戻ってきた彼女は少々しょんぼり。切手が欲しいだの寒いから暖房を入れてくれだの頼んだ挙げ句、上着の中からいきなりスリッパを取り出し「ハウマッチ?」と言ったところ、受付の女性がビックリして後ろに引いたらしい。スリッパは持ち帰って良いことがわかったので「いやー、恥かきの甲斐があった。良かった良かった」となだめ、ホテルの記念品は無事に確保された。
 翌朝は素晴らしい天気だった。輝くような緑、湖のように大きな池、心地良く吹き渡る風に包まれて散歩を楽しみ、ホテルを振り向くと、画家の描く絵よりも美しい風景画がそこにあった。
 窓を開けていると蜂が入ってくるし、少し肌寒いのに、もう5月だからと暖房は切られていたけど、やっぱり泊まって良かった。N子の思い出のスリッパは今、大事にしまいこまれている。
(ブレーメン在住)

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見られている -01.05

 ドイツでは隣近所が密かにお互いを監視しあっている、なんて話を聞いたことがある。ある日本人が、自分の近所を歩くと家々の窓のカーテンが道に沿って揺れ動くと言った、などという話だ。その場は笑い話で終わり、内心では「日本人だろうがドイツ人だろうが近所を興味津々に眺める人もいるわよね」ぐらいに思っていた。
 しかし「これはひょっとして」と思わされる事件が起こった。
 ある日曜日の朝、夫は前日の夜、車に置き忘れた最新型の携帯電話を取りにアパートの駐車場へ行った。そこで目にしたものは、無残にも窓ガラスをぶち破られた車。携帯電話は紛失していた。
 高級とはいえないまでも、静かな環境の良い住宅地を選んで住んでいるつもりだったからショックは大きい。
 この事件は勿論私たちを落ち込ませたが、ここで喜ばしいとは言えるものの、同時に当惑させられる出来事が起こった。
 夫が応急処置のためのプラスチックの板とガムテープを持って再びアパートの外に出た時、丁度車に異変が起こったことを知らせるためにやって来てくれた「見ず知らずのドイツ人」と顔を合わせたのだ。
 彼はどうやら近所に住んでいるらしいのだが、こちらは先方の名前も顔も全く知らない。しかし彼の方では、窓ガラスを破られた車の持ち主がどんな人間で、名前が何というか、どこに住んでいるかも全てご存知のようなのだ。わざわざ出向いてきたくれた彼の親切に感謝するが、この事実は私たちを少々ギョッとさせた。
 冷静に考えてみれば、白人の多いこの町では黄色人種というだけで目立つ存在だ。しかしジロジロ見られることもなく、当然のようにドイツ語で話しかけられるので、さほど浮いた存在ではないのだと思い込んでしまっていた。その実、異色の存在として意識されていたために、こうして顔と名前が売れ(?)ていたのだろうか。
 一方ドイツ人どうしの間でも、庭の芝生が伸び過ぎて、地域の美観を損なうという理由で隣家から警察に通報されたという話や、引っ越し先でカーテンを付けるのが遅れていると「あなたの家の中が丸見えで不愉快だ」というメモがドアに貼られたなどという話があるらしい。
 黄色人種であるがゆえに私たちが少しばかり目立っているのは事実だろうが、やはりそれだけでなく、この人たちはお互いをよく見ながら暮らしているのかもしれない。それは窮屈でもあると同時に生活環境を守り安全な暮らしを保つ効果を上げているのだろう。狭量な、意地悪な喜びを感じている場合だってきっとあると思うけれど。
 それにしても、それとなら泥棒が車の窓を壊した時に誰か気がついても良さそうじゃないかと八つ当たり気味に思いつつ、日本人の評判を落とさないように気をつけて暮らさねばと思いしらされた事件だった。
(ブレーメン在住)

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一時帰国 -01.04

 1年以上日本に帰っていないので、そろそろ里心がついた…というわけではなかった。なんとなく歯が疼くので、これは虫歯かもしれないと焦った揚げ句、当地で治療したくないばかりに「年老いた両親が心配でねえ」など尤もらしい理屈を付けて帰ることにしたのだ。
 夫も仕事で忙しいので1人で勝手に帰らせてもらうことになったが、そうなればちょっぴり後ろめたい。当地に住む日本人からも羨ましがられ、美味しいものがたくさん食べられるとか温泉にも行けるとか、何やら大変贅沢な気分になる。友達にも会って日本語に思い切りお喋りを楽しもうなどと夢想するが、喜んでばかりもいられない。
 まず帰国が決まった段階で、準備としてシャカリキに料理。当地には弁当やもなく、夫はいつも帰りが遅いので、食事の支度が負担になるのは目に見えているからこれは仕方がない。
 チャーシュー500グラム、ぎょうざ40個、コロッケ12個、唐揚げ700グラム、切り干し大根の金ぴら、ひじきの煮物。普段の食事以外にこれだけ支度をするのだから、いい加減重労働である。
 同時進行としてお土産の用意をしなくてはならない。日本から本やお菓子、食事などを送ってくれる友人には「今後も宜しくね」の下心を込めて多少なりとも気持ちのこもった物を選ぶ。
 ケチ臭いことを言うようだが、ヨーロッパに住んで4年ともなれば「くれないヤツにはこっちもやらん」という方針が既に立っている。安い土産の1つぐらいあってもいいのではないか、と思われる方が多いかもしれないが、それは甘い!塵も積もれば山となる。こうでもしなければスーツケースの容量を超えてしまうし、千円以下で買えて、尚且つもらって嬉しい土産があったら是非教えてもらいたいものだ。
 さて、重要なのは家族への土産。双方の両親、兄弟姉妹に甥や姪。子供たちには何がいいか、必要品は既に持っている大人が喜ぶものは何か。ビールにハムというわけにもいかない。大抵の物は日本で揃う昨今、この土産探しは大変な重労働だ。
 今回はジャケットを5着もスーツケースに入れたために、自分の物が殆ど入らなくなった。ズボンとシャツと下着の着替えが1つずつと、日本で使うバッグが1個だけ。
 土産で膨れ上がったスーツケースを眺めながら押し寄せる疲労をひしひしと感じた。そういえば前回の帰国のときも、家事と土産探しで過労になり、高熱を出したんだっけ。そうは思ってもシーツの交換やトイレ掃除を済まさずには出発できない。出発時間ぎりぎりまで洗濯をして買い物をしてアイロンをかける。
 乗り換えの待ち時間も含めておよそ16時間の道程も、気持ちを引き立たせる役には立たない。
 出発前日となれば、最初に感じた浮き浮きした気持ちが大半は吹き飛んでいる。それが一時帰国だ。
(ブレーメン在住)

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不動産物件 -01.03

 ドイツでは投機目的の土地の売買が禁止されている。土地を取得してから一定の期間内に転売する場合は、少なくない税金を納めることになるのだそうだ。バブル時代の日本で起こったような土地転がしは、ドイツでは起こらないのである。
 ところで、最近我が家の中だけ不動産購入ブームが起こっている。手始めに英国の家を3軒、去年はドイツの家を3軒、一番最近はオランダの家を3軒買った。
 それらは全て、今住んでいる賃貸の小さなアパートの窓辺やガラス戸棚に飾られている。だって、ミニチュアの家だもん。
 最初の出会いはオランダで暮らしていた頃の。英国の有名メーカーが手作りしている、ミニチュアの家を欲しがる日本人の奥様達の存在がきっかけだ。当時はリカちゃんハウスにお金を出すみたいなものだと、冷めた目で見ていたものだ。
 それはヨーロッパの多くの国で販売される人気商品なのだが、ブレーメンでは手に入らない。
 それで縁もなく暮らしてきたが、ロンドンに行くついでに、知人に買ってきて欲しいと頼まれたのが転機となった。
 気安く惹きうけたものの、人様のお金を使うので慎重になる。実在の農家、民家、屋敷などを正確に縮小して作られたモデルを幾つも並べ、全体の雰囲気から細かい所までじっと見つめ、検討すること暫し。
 侮れない。いや、素晴らしい!小さな小さな窓辺に飾られた鉢植え、庭の花や野菜。技術の確かさと英国の古く美しい建物に魅了された。
 オランダで品揃えの良い店を見つけたり、空港の免税店を漁ったりして、半年後にはイングランドの農家2軒と田舎の屋敷がガラス棚に並んだ。その頃、最初は黙認するという態度だった夫が「ドイツの家も欲しい」と言い出した。
 しかし、そのメーカーにはドイツの家のモデルはない。無理して買うまでもないと思っていたのに、幸か不幸か見つけてしまった。クリスマスの市で、ドイツ風の小屋や屋敷をかたどった香炉がたくさん売られていたのだ。こちらは精巧さの点で英国のメーカーには劣るものの、その分値段は安く、メルヘンチックで可愛い。こうして3軒が更に加わった。
 オランダの家は夫が出張先で買ってきた。「君のために」と言いながら目がキラキラ。食事をしながら自分の前に並べて大変嬉しそうで、とても「妻への土産」と買ってきた夫の様子ではない。
 違うメーカーながらこれも手作りで、オランダ独特の細長い建物が愛らしく再現されている。
 これでヨーロッパで住んだ国の家が全て揃ったが、まだ終わりにはできない。次はアイルランドの小さな農家と、蔦のからまる納屋を買うのだ!
 しかし、本物の不動産を購入できる目処は全然立たない。お金持ちじゃないんだし、こんな無駄遣いはヤメロという理性の声をかっ飛ばし、今年のニューモデルは何だろうとワクワクしている。
(ブレーメン在住)

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雪のポツダム -01.02

 昨年の年末、短い休暇を利用してポツダムに行ってきた。数日前から雪が降っていたので、始めて見るポツダムは幻想的なほど美しかった。
 駅からホテルを探して歩いて行くと、町自体は小さく、一番の目抜き通りも小さな店が並ぶだけである。小奇麗なホテルにチェック院し、本格的な観光は翌日からにした。
 翌朝、まず新宮殿へ向かった。バス停車を降りると大学が目の前にある。キョロキョロしながら新宮殿を探して大学を抜けて行くと…あった。
 私たち以外に誰も人が見えない沈黙の白い世界に威風堂々、トカーンと立っていた。
 入場にはガイドツアーに参加しなければならないのだが、他に客は見当たらない。ツアーは私たち夫婦とガイドさんの3人で開始された。
 お陰で通常ドイツ語でされる解説を全て英語でやってくれた。超ラッキーというやつである。
 細々とは解説しないが特筆モノなのは「貝殻の間」である。見る側によっては受け取り方は違うかもしれないが、通り一遍の装飾を超えた異彩を放つ広間となっている。
 他の部屋もそれぞれに豪華で特色があり、ベルリンのシャルロッテンブルグ宮殿や、次に行ったサンスーシー宮殿に比べても遜色がない。いや、この3つの宮殿を比べるならば、個人的にはこの新宮殿が一番素晴らしいのではないかと思う。
 サンスーシー宮殿は確かに大変優雅で豪華ではあったが、さっぱりわからないドイツ語のツアーにくっついてまわるからだろうか、他の2つの宮殿を見た後では、やや通り一遍の感が否めない。
 次に、かの有名なポツダム会談の場になったツェツィリエンホフ宮殿へ向かった。貴族の田舎の別荘といった趣の屋敷が、真っ白になった森と、鏡のような湖に囲まれて立っていた。
 日本語の解説書をもらってドイツ語ツアーにくっついて歩く。華美ではないが、やはり日本人としてなにがしかの感慨を覚えずにはいられなかった。
 さて、この旅行で一番心に残る、且つ無念な思いでいっぱいにさせる出来事がここで起こった。
 この宮殿は、一部を少々値の張るホテルとして営業している。普段は「寝るだけだから」と言って、贅沢なホテルには泊まろうとしない夫が「ここなら泊まってもいいな」と発言したのだ。
 これまでずっと、いわゆる「古城ホテル」に憧れ続けながらも、おとなくし諦めてきたというのに、この気軽な豹変は何だ!
 しかしホテルはもう決めてしまった後だし、いずれにしても満室で泊まれない。悔しい!
 こうなったら誰か日本から遊びに来た時にかこつけて、絶対泊まるぞ!
 サンスーシーもポツダム会談も、古城ホテルに泊まれなかった悔しさに比べればインパクトに欠けるものとなってしまったのは、私の俗物根性のせいなのか。否、ロマンチシズムのせいだとも。
(ブレーメン在住)

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イタチと襟巻き -01.01

 夫は海外出張が多い。そしてそういう場合、時々だがお土産を買ってきてくれる。彼のセンスがいいのか悪いのか、私には判断がつかないが、一昨年の冬にブルガリアで買ってきてくれた土産は、センスを越えたインパクトがあった。
 特大の狐の襟巻きだ。そこまでは良しとしよう。しかし脚が付いている。ブランと垂れて。更に、なんだか獣臭い。驚いて咄嗟に口もきけないでいる私が感激しているものと判断した夫は、得意満面である。
 成人式の晴れ着に羽織るストールと脚付きの狐の襟巻きは、彼の中では同じ物であるらしい。私の目にはほとんど狐の剥製なのに。
 「エレガントだ!これをコートの上から付けると凄く豪華になる!」と夫は目を輝かせている。
 なんとか彼は傷つけずに身に付けずに済まそうと努力してきたが(曰く「普段着じゃ勿体ない」「残念だけどフェイクファーのコートには似合わないわね」)、年末にロシア旅行の計画が持ち上がったときは、いっそうこの機会に夫を喜ばそうと決心した。
 しかし切符の手配が遅れたためにロシア旅行は断念。狐、いや襟巻きのデビューを見送ることとなった。
 いっそずっと見送りたい気分なのだが、それではこの狐は何のために狩られたのかと思うと、何やら申し訳なくなる。
 そこで連想されたのが、先日聞いたばかりのイタチの話だ。
 知人にハンブルクの近くに住む日本人のチェンバリストがいるのだが、彼女がある夜、窓を擦るような音に目を上げるとそこにはイタチが!
 その後イタチ君は毎晩のようにやってきては窓にへばりついて家の中を覗くようになったとか。
 なかなか知恵の回る動物らしいから、好奇心旺盛なのだろうか。
 「中はあったかそうじゃな。あれはなんじゃろ、食べられるんじゃろか」など考えていたのかもしれない。
 しかし、最初はのどかな付き合いだったはずのイタチ君、彼女にとっては頭痛の種になってしまった。
 彼女の言えは今やドイツでも珍しくなった萱葺き屋根。その維持にはちょっとしたお金がかかる。
 例のイタチ君はその屋根に穴を開け、自分の巣材として持ち帰るようになってしまったのだ。
 困った彼女は自ら捕獲しようと試みたものの、結局失敗。狩人を呼ぶこととなった。
 普通に人が住んでいるところで狩人が必要になるなんて、ロマンチックのような、いやんなっちゃうような状況である。
 狩人は駆除に来たわけではなく、捕らえた獲物の毛皮や肉を売って暮らしの糧とするので、呼んだ方は賃金を支払う必要はないのだそうだ。
 結局イタチ君は敏感に罠を察知したらしく現れなくなってしまい、命拾いをしたようだ。
 しかし私の襟巻きとなってしまった狐は違う。線香でも立てて拝んでから有り難く着用させていただくことにしようか。
(ブレーメン在住)

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ドイツ人と暮らし -00.12

 当地に引っ越してくるまで、ドイツ人に対してはおぼろげに「勤勉」「規則や時間に厳しい」「質実剛健」のイメージを持っていたが、実際に暮らしてみて、こちらの思い込みとは若干違った点や彼らの生活様式、社会的習慣が段々わかってきた。例えば、ドイツ人の朝は早い。スーパーは8時に開店し、職人さんたちもその時刻には仕事を始めている。
 天窓を付ける工事を頼んだ時は、午前8時からの約束で、実際に来たのは7時45分。ちと早過ぎる。これが日本であれば外で時間を潰して調整するところを、彼らはとっととやってくる。
 しかし、家で朝食を食べてこないので、9時から10時の間に食事休憩が入る。40分程してから戻ってきて作業が再開するが、休憩前も後も挨拶はなく、いつの間にかいなくなり、いつの間にか戻っている。つまり当然の社会の習慣なのだ。
 一方、午後からの約束で来たときは1時間半の遅刻。謝罪も連絡も無しでケロリとしている。時間に非常に厳しい人もいる反面、このようにルーズな人も意外に多い。車のマナーは大抵は非常に良いのだが、ルールさえ守っていればいいんだろう?といった強気の運転手も多い。
 例えば直進車優先であれば、右・左折して進入しようとしている車が出かかっていても、スピードを落とさずに突っ込んでくる。「注意すべきなのはお前だ。俺じゃない」というセリフがにじみ出ている運転である。
 そして謝らない。内心ではどう思っているのかわからないが、もし文句を言われたら絶対に言い返すゾという雰囲気なのだ。しかし大抵の場合はお互いに微笑んで事足りるので、無事に済む。
 また、無愛想であっても親切で、困っている人がいれば自然に手助けをする。ネオナチ問題も確かに存在するが、健全な正義感と親切心を持つ人々の方が圧倒的に多い。異邦人である私も何度も助けられている。
 綺麗好きというのはイメージ通り。料理はあまりしないが掃除は欠かさず、庭も完璧に整えていて、とても美しい。
 また、ドイツはビールのイメージが強いかもしれないが、実際には白ワインの生産が盛んで人気も高い。コーヒーもビール同様に有名ではあるけれども、決してコーヒーは飲まないという人も珍しくない。
 その他面白いと思うのは、習慣とも人間性とも関係ないが、北ドイツと南ドイツがお互いに相手をけなすことである。言葉のなまりがどうだとか経済的にどっちが上だとか、第三者としては笑える内容で張り合っているらしい。
 日本という国や日本人を一括りにして決め付けることができないのと同様に、ドイツやドイツ人を一言で断ずることなどできない。共通した社会習慣は存在するが、アンニャはアンニャだし、ヨアヒムはヨアヒムだ。勝手なイメージを張り付けていると、驚かされる事が多い。
(ブレーメン在住)

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エキスポ2000 -00.11

 ハノーバーで開催されたエキスポが終了した。開催当初は不入りだったらしいが、9月下旬になって出かけてみるとそうでもなく、結構な混雑ぶりであった。
 最近、識者による批評を読むと、自分の感想と全く違っているのが面白い。その最たるものが「素晴らしい」とされていた南洋風の、竹を使った建築物である。
 説明書らしいものがちょっぴりあるだけで、建物がドンと建っているだけ。確かに環境に優しく且つ見事に適応した優れものだが、イベント性が無い。遊園地じゃあないのはわかっているが、演出がひと捻り欲しい。こっともカネ払って見に来てるわけだし。
 その点で頑張っていたのが韓国。最後のショーが終わるまで、簡単には出られないようになっていたのは執念を感じたし、自国の紹介を繰り出すパワーは大きく、イベント性もあった。
 ちょっとがっかりしたのが日本。伝統工芸である和紙を使った建物はエコロジーをアピールしていて良かったし、CO2削減のための研究や暮らし方の紹介も良い。ここまでは意識レベルが高いとは言えない私も識者と同意見である。
 しかし、もっと日本の生活や文化、歴史などを紹介してくれるのを期待していた。関係者はいまさら茶道や和食でもあるまいと思ったかもしれないが、それは間違いだ!
 イギリスでは味噌汁には醤油を垂らすと紹介されているし、子供用絵本には「昔々、日本に音楽が好きな貧しい漁師の子供がおりました」と書かれた文章の横に、中国風の服を着てバイオリンを持った子供の絵が!
 ドイツでも日本に関するある番組が放送されて「日本人は皆(皆ですゾ!)飼い犬をすぐ捨てちゃうんだろ」と言われ、外国人が浅草や土産物店で買うような化繊キモノを本物の着物だと思っている。これが実態だ。
 というわけで、すき焼きや寿司以外の和食を紹介する公開お料理教室(試食あり)とか、本物の着物の紹介、茶道のお点前の体験など「何をいまさら」という事もぜひやってほしかったなあ。
 さて、会場があまりにも広いので、西欧諸国のパビリオン群に到達する前にヘトヘトになった。しかし主催国であるドイツ館には行かなければと疲れた体にムチ打った。
 ドイツは面白い方法を採っていた。国という言葉でくくらず、各州からの個々の展示が広い会場に華やかに展開されていたのだ。ゴチャゴチャしているようで意外にわかりやすく、一つ一つを見た後でドイツに対するイメージが浮かんできた。
 見る人によってイメージは異なるのだろうが、無理にひとまとめにしない形をとったこのパビリオンは、主催国に相応しい出来映えだったと言えるだろう。エキスポとしては大赤字となってしまったのが残念である。
 次回の主催国である日本からも視察員が来場したことであろう。どのような頑張りを見せてくれるのか、楽しみである。
(ブレーメン在住)

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SAIL2000 -00.10

 短かった夏の終わり頃、ブレーメンから60キロ程離れた港町ブレーマーハーフェンに、各国編成の帆船団がやって来た。5年に1度、北ヨーロッパの主要な港を巡航する大イベントである。
 今年は「SAIL2000」と銘打たれたこの行事を見ようと、初日は22万5千人、最終日には77万人が押し寄せた。一時的居住者である私たちには恐らく次のチャンスはないので、混雑を予想しつつも最終日に出かけてみた。
 ヨーロッパの港町は海に面しているとは限らない。なぜなら大きな運河が大陸に入り込んでいて、物流の大きな要となっているからだ。ブレーマーハーフェンも、海はすぐそこだが、帆船が集まっているのは運河である。川幅も深さもあるウェザー河に各国の国旗を掲げた船が佇んでいた。
 夕方からパレードがあるのだが、土手は鈴なりの人で、このままでは船の代わりに人の背中を睨むことになりそうだ。
 美しい帆船が帆を広げて走る様を良い場所から見たい。期待と共に空想も膨らんでいく。
 残念ながらパレード開始時には飛び上がりでもしなければ船は全く見えなかったけれど、段々前の人たちが抜けていき、とうとう最前列に到達。
 白い帆はどこ?と張り切る私の目に映ったのはきちんと帆を畳んで静々と進む船の姿だった。
 帆船と言うからには帆を張ってもらわにゃ、と思ったけど、それには風が強過ぎて危険なのだそうだ。チッ。これだけの大群衆が来ているのだから、よほど華々しいのかと思っていたのに。
 期待が大き過ぎたので一瞬がっかりしてしまったが、気を取り直して見れば、やはり美しい。揃いの制服を着た乗組員が整列し、こちらに敬礼を送ってくれていたりするし、様々なデザインの船が一堂に会している様子は、控え目に言ってもかっこいい。
 土手の内側ではたくさんの屋台やテントが集まり、まさにお祭り騒ぎ。
 ハンザ同盟の昔から、船による交易で潤った歴史を持つドイツの多くの都市では、町の主な建物の飾りに船が使われているのをよく目にする。船に関連した博物館も多いし、誇りと憧れのない混ぜになった対象である。
 一方、日本は海運王国と呼ばれていた時代がさほど昔ではないし、島国であるがゆえに現在も海運は重要だ。しかし、どうも人気がなく、世間一般から船乗りの仕事も船自体のことも理解されているとは言い難い。以前日本で、夫がビル10階分の大きさの船に乗ったことがあると言ったら、そんな大きな船あるのぉ?と返されたらしい。
 この違いはどこから来るのか。根本的なことはわからないが、要するにドイツ人にとっては船は大小にかかわらずロマンであるのに対して、日本人にとっては道具でしかないということなのであろうか。
 普段は群れないドイツ人が山のように溢れた河沿いの土手で、ちょっぴり寂しくなった。
(ブレーメン在住)

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にわかガイド -00.09

 ヨーロッパに来てからというもの、毎年夏に引っ越しをしてきたが、今年は初めて同じ場所で2度目の夏を迎える。すると、家族や友人達が訪問の打診を始めた。まずやって来たのは私の姉とその息子で、夫は忙しいので私がにわかガイドになることになった。
 自慢じゃないがドイツ語は相変わらずわからないし、英語も少ししかできない。1人では隣町に行ったこともなく、列車の買い方もよくわからない。それなのにブレーメン以外にもハンブルグ、ベルリン、その後ロンドンにも行ってバッキンガムやらロンドン塔やらを観光しまくる計画を立てた。無謀である。
 しかし、2人とっては初めてのヨーロッパ。精一杯いろいろな所を見せてやりたかった。
 と、いう訳で2人がやってくる日が迫るに連れて、楽しみなのと同じぐらい憂鬱になってきた。大体、私は引っ込み思案で決して前向きとは言えず、家にこもっているのが大好きである。なぜこんなことに?と悶えながら、その日を迎えた。
 ブレーメンには日本からの直行便がなく、フランクフルトなどで乗り換えなければならない。私に輪をかけた世間知らずで小心者の姉が心配で、航空会社が乗り換えを手伝ってくれるサービスを頼んだ。それでも一抹の不安を抱きながら空港に迎えに行くと…いない!
 真っ青になった。来させるんじゃなかったと激しく後悔。誰もいない荷物のターンテーブルを見ながら呆然と立ちすくんでいたら…現れた。
 トイレに行き、出てきたら誰もいなくなっていてビックリしたそうだ。私の焦りに比べたら屁でもあるまい。
 姉の首を締め上げる代わりに拳を握りしめ、しょっぱなから私を動揺させた1週間が始まった。
 翌朝から観光開始である。駅の窓口で拙い英語を使い、必死でハンブルグ往復の切符を購入。1等か2等か、往復か、急行か等々、結構言うことは多いのだ。しかし私の苦労する姿を見て、2人はきっと感謝してくれるに違いない、と思って振り向くと…誰もいない。
 2メートル程離れ、あらぬ方を眺め、我関せずという態度の2人を見つけた時の気持ち、わかってもらえるだろうか。
 その後も万事この調子で、何もかも1人でやる羽目になった私のストレスは高まる一方である。
 しかし、やはり楽しいのだ。車窓が汚すぎて外が見えないと言っては笑い、超特急列車の食堂車の朝食の豪華さに驚き、二階建てバスの最前列に座ってはしゃいだ。
 結果としては、私の無理なスケジュールの組み方の為に大変な忙しさとなり、反省しているが、甥は大好きなUボートの博物館に行ったり、ロンドンの帝国軍事博物館で戦闘機や戦車を間近に見て大満足だそうだ。それを聞いてとても嬉しい。
 でも次は普段のブレーメンでの生活を体験してもらいたいので、来年の夏も来るといいなあと期待している。私って懲りない奴かもしれない。
(ブレーメン在住)

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ドイチェ・バーン -00.06

 ヨーロッパに住んでいることで得る大きなメリットの1つは、何と言ってもあこがれの観光地への足の便の良さである。
 何しろ諸外国とは陸続きだ。ドイツの南にはスイスやオーストリア、西はオランダ、東側はポーランド、チェコ等々。これらの国へ旅行する場合、自動車旅行も良いが列車という手もある。そこで先日、長距離列車の旅に挑戦してみた。
 まずは寝台車で出発。二等の個室を予約した。
 子供の頃に乗った日本の寝台車は個室などなかったから、それだけでもワクワクする。泥棒防ぎの上でも安心だ。駅のホームで待っていると、進入してきた列車から車輌ごとに係員が1人ずつ出てきた。その静かで落ち付いた登場の仕方は、映画の1シーンのようである。
 車室の中はさすがに狭いが、正面の小さいテーブルにはミネラルウォーター2本とリンゴ2個入りの籠があり、部屋の右側は2段ベッドで左側のドアを開けてみるとトイレ、洗面台、そしてその奥にはカーテンで仕切られたシャワー室がある!
 バスタオル、石鹸、シャワーキャップ装備の上、エアコンも完備。ドアはカードキー使用で、翌朝は備え付けの電話でモーニングコールをしてくれるという。ちょっとしたホテル並みで、我々の感激もひとしおである。
 風呂も歯磨きも手洗いも済ませて来てしまったので妙に残念。使ってもいいんに使わないなんて、損したような気分になるのは貧乏性の所以だろうか。カードキーも活用すべく食堂車に行きたいところだったが、疲れていた上に既に真夜中だったので諦めた。残念。翌朝、名残惜しい気持ちで寝台車を降りた。
 ドイツ鉄道(ドイチェ・バーン)の寝台車は、シャワーも凄いが個室に専用の清潔なトイレがあるという点で得点高し。
 さて、寝台車体験は済んだが、ドイツの鉄道と言えば有名なICE(インターシティエクスプレス)だ。ドイツの新幹線のような列車で、1度は乗りたいと思っていた。今回の旅程では一部区間だけの利用なので、それまで二等車で通してきたのを、そこだけは贅沢をして1等に乗った。
 快適の一言である。その居住性は新幹線のグリーン車も及ばない。完璧なクッション、リクライニング、余裕のスペース、各座席に装備のビデオ画面、大きな窓。勿体ないことに、疲れ切っていた私たちはこの贅沢な環境でも眠っただけで過ごしてしまった。
 それにしても本当に気持ち良く眠れた。首が痛くならない、快適な睡眠を保証しよう。負け惜しみもあるけど。寝台車もICEもナカナカよろしい。鉄道の旅は大成功である。
 調べてみると、ブレーメンからスイスのバーゼルやパリ行きの列車も出ている。行き先を見ただけでワクワクしてくるではないか。
 でもお疲れ気味のサラリーマンは要注意。寝過ごしてハッと気が付いたらパリにいた、なんてことになったりして!?
(ブレーメン在住)

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サッカー観戦 -00.06

 ドイツのサッカーシーズンが終わりを迎えた。近在の知人によると、当地のチームは今一つの成績だったらしい。
 私自身はサッカーにはほとんど興味がないが、ドイツでは大人気のスポーツである事ぐらいは知っている。
 ある日、たまたま知人から観戦のお誘いがあったので好奇心から有り難く出かけることにした。
 これは数カ月前の出来事で、季節はまだ冬だった。サッカー場は当然屋外だから、防寒対策は万全を期さねばならない。帽子、足首までの厚手のコート、手袋、マフラーに身を固めた。完璧だ。
 と、思ったのだが甘かった。氷柱の気持ちが分かった気がした。しかし来てしまったからには2時間近く頑張らねばならない。
 座っていればそのうち椅子が体温で暖まり、少しは楽に…ならない。
 客席には一応屋根があるとはいえ、後方の素通しの窓から風が吹き下ろしてくるので、いつまでも尻は冷えたままだ。尻を含めた身体の厚みには自信があるが、これには参った。ドイツ人は平気なのだろうか。
 試合を楽しめるのか不安になりながら早く始まり早く終われと祈っていると、選手の紹介アナウンスが始まった。
 これが凄い。まず競技場の名物ジョッキーがノリのいい声で選手のファーストネームを叫ぶ。すると客席が選手のファミリーネームで応える。
 例えばこうだ。
 「カール!」とジョッキーが叫べば、観客が「シュミット!」と続ける。全員の名前が叫ばれた後、「ダンケ・シェーン!」「ビッテ!(どういたしまして)」で締める。
 呆気にとられている暇はない。競技場が熱くなってきた。
 しかし、やはり寒い。相手チームの紹介も終わり、いよいよゲーム開始であるが、心の目はトイレを探している。
 ところが始まってみると試合は面白かった。凡ミスの多い冴えない試合だったと言われたが、以前見た日本のサッカーの試合よりもずっと面白く、大はしゃぎで観戦した。
 結果は引き分け。あまり地元チームに思い入れが無かった分、悔しさは感じず楽しい気分が残った。それと勿論寒さが。
 それにしても、ドイツ人は普段はクールだが、観戦中は実に楽しそうに盛り上がっていた。
 とは言え、ファンが興奮して選手に押し寄せるようなことはあまりないらしく、選手の方でもファンに対して自然に接している。
 以前、知人が通路を歩いてきた選手に「今度ウチに来ないか」と声を掛けたところ、翌週に仲間の選手も連れて本当に遊びに来たこともあったそうだ。日本ではまずこんなことは起きないんだろうなぁ。
 この日を境にサッカーに開眼したというわけでもない私だが、そうした選手の態度には好感が持てるし、試合も意外に面白かった。
 また機会があれば観戦したい。勿論、座布団は必携である。
(ブレーメン在住)

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のんびり歩こう -00.04

 ドイツ人は戸外を歩くのが大好きである。やっと春らしくなってきたこの頃だが、彼らは厳しい冬の間も、森林公園や郊外を歩くのが好きだ。
 英国人も同様だが、彼らは来客と家の近所をトレッキングすることをもてなしとする。以前、ある英国人に招待された時は、「足拵えを厳重にして来てね」と言われた。お洒落より、気合いと体力でお付き合いだ。
 一方、ドイツでは冬にコール・ファールトが行なわれる。知り合いのドイツ人に招かれて初めてこの行事を知ったが、まさに戸外の空気が大好きなドイツ人のやりそうなことだ。寒い冬に仲間が集まり、喋り、歩き、飲んで、食べる。なぜこんな事を?をという素朴な疑問から、その歴史を尋ねてみた。
 今回の人数は20人余りだったが、昔は150人から200人で行なわれることもあり、若者がパートナーを見つける出会いの場でもあったという。楽しく散策した後は、寒さに耐えるための脂肪分たっぷりの食事を皆で取り、厳しい環境と楽しみの少ない日常を乗り切ったのだそうだ。
 当日は、郊外のパブに集合した。キャベツの一種を飾った手押し車が用意され、中には多種多様な飲み物を入れた何本もの魔法瓶。アルコール類が多いが、お茶もある。
 出発してみて、趣旨が運動でないことがよく分かった。ペースがのろい。待っている間に冷えてしまった体を温めるどころではない。美しい田園風景も、顔をマフラーにめり込ませながら目だけキョロキョロさせて見る始末である。
 途中何度も手押し車を止め、飲み物を楽しむ。温かいオレンジジュースとリキュールの飲み物が人気で、すぐに無くなった。寒いんだもの。こりゃ飲まずにはおれぬ。
 2個のサイコロを振って1と1ならスライスレモン、6と6ならチョコがもらえる、等のゲームもやる。普段、ジャンケンや賭け事に天才的な弱さを発揮する私が、商品がショボイせいか、1を揃えて出すという快挙を成した。むなしかった。
 しかし、1人がくわえた穴明きパスタに、もう1人がくわえたスパゲティを、手を使わずに通すゲームには燃えた。
 パスタが長いので、唇の微妙な力加減が先端に大きく影響して難しい。私たち夫婦は互いの肩をガッシリ掴み、唇をとがらせ、寄り目となって成功。商品はやはりチョコレート一1粒だった。
 この調子で3キロ程歩いた後、レストランに入った。メニューは決まっている。
 まず結婚式のスープという鶏団子のスープ。それからキャベツの一種の煮込みにジャガ芋、ピンケルというこってりしたソーセージなどである。
 美味しい。ここで初めて、空気が澄んでいたとか水仙の蕾が土手に並んでいたのが可憐だった、などと思い出した。
 風車や新鮮な空気も良いが、やっぱり暖かい部屋と美味しい食べ物の方がいいなぁ、と思った。
 ドイツ人にはなれそうもない。
(ブレーメン在住)

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恐怖の観覧車 -99.11

 恐怖のジェットコースター、ではない。呑気な乗り物の代名詞のはずの観覧車が、ブレーメンではスリル満点の乗り物だった。
 10月のある金曜日、北ドイツを移動する遊園地の1つであるフライ・マルクトがブレーメンにやってきた。年に2度、春と秋に訪れるこの遊園地を、大人も子供も楽しみにしている。
 しかし、僅か2週間しか興業しない組み立て遊園地である。大した事はあるまいと思っていたので、知人に誘われなければ出かけなかったかもしれない。だが「イルミネーションが綺麗だから、夜、行ってみましょう」と言われて、出かけた。
 行ってビックリ。方向を見失う程広い上、組み立てとは思えないパワフルなアトラクションに、華やかなイルミネーションで溢れていた。
 初めて見る屋台の食べ物はどれも美味しいし、お化け屋敷などの建物ではハイテクが使われていて、なかなか豪華だ。そして、やはり目を引くのは乗り物だ。
 9割が絶叫マシンである。何もかもが物凄いスピードで動いていて、どの乗り物もベルトで身体を固定していなければ、遠心力で遥か彼方にブッ飛ばされそうなシロモノばかりである。ジェットコースターともなると、筋金入りの刺激愛好家も満足しそうなウルトラ技の連続である。
 しかし、いい歳をした大人として来たからには、その手の乗り物に無理に乗る必要はない。観覧車に乗ろうという提案に、余裕の笑みで応じた。
 実は高所恐怖症だったりする。しかし、なぜか周囲を完全に壁やガラスで囲まれている場合に限って怖くない。そのため、飛行機や観覧車を怖いと思ったことはなかった。
 直径60メートルの観覧車は、華やかな電飾に飾られてとても綺麗だった。しかし、近くに寄ってみて驚いた。
 籠にガラスがはまっていないのだ。これでは釣り下げられたベンチだ。不安になりながらも後に引けず、乗り込んだ。
 スカスカである。妙に風通しが良い。同乗した子供たちが後ろを向いて椅子に膝立ちし、下を覗き込んだのを見た瞬間、私の大人の威厳は、四次元の彼方に消えた。
 日本の観覧車に比べて若干速いが、6周も回り続けている間、「コワイー!」と叫び、やっと降りた時には目に涙。
 我を忘れて十分に楽しんだとの見方もできるが、納得できない。あんなに危険な乗り物が許可されているなんて、ドイツ人め、結構図太い。
 威厳の方は修復のしようがなくなり、その後は他人の目を気にせず、気楽に楽しむことができたのだから、いっそ良かったのかもしれない。そうでも考えないと、予想外の恐怖に震え上がった上に赤恥をかいてしまい、立場がないではないか。
 フライ・マルクトめ、今回は不意打ちだったが来年の春は見ておれよ。思い切って楽しむために今度は身内だけで、こっそり出かけようと誓った秋の日であった。
(ブレーメン在住)

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旧東独・旧西独 99.10

 これまでドイツ国内を何箇所か訪問して感じるのは、旧東独と旧西独は町のたたずまいから人の表情まで違っているということだ。旧西独は、歴史に裏打ちされた華やかさと少しの退廃があり、観光地では特に町が美しい。一方、旧東独では、個々の文物は別として、町全体としての華やぎがないように思う。
 先日、北ドイツのシュベリンという旧東独の町を訪れた際、観光の目玉である城の美しさには目を見張った。湖を背景にした豪華な城で、その内装のセンスの良さにあらためてドイツ人の洒落気を感じた。
 しかし、人々の住むアパートは、新しくはあってたがかえってその新しさ故に安普請が目につき、花を飾るでもなく、何がなし寒々としていた。北ドイツの夏は短いので、ブレーメンでは人々が競って花を飾るのだが。
 一番強く違和感を感じたのは美術館で絵を見ていた時だ。見学者がほとんど居なかったせいもあったろうが、私たちの後を職員が付いてくる。
 一応、何気なさそうにはしているものの、部屋ごとに代わる職員のほぼ全員に尾行されて、思わず彼らの期待に応えるべく、壁から絵をひっぺがし、抱えて走り出してみたくなってしまった。
 せめて視線が合った時にニッコリしてくれると随分とこちらも気が楽になるのだが、これまで馴染みのあったオランダ人やイギリス人と違って至って無表情である。
 ブレーメンでも無表情なドイツ人は多く、何も旧東独だから表情が無いのだとは言わない。しかし、道を譲ってくれたりドアを押さえてくれたりという親切な行為をしながら、むっとしたような顔をしている人が何と多いことか。
 又、町の外側では放置され荒れ果てた倉庫や建物が散らばっていた。ブレーメンやハンブルクなど旧西側都市にも、犯罪の温床になっている廃れた危ない地域はあるが、シュベリンの場合はいかにも資金不足のための荒廃に見えた。
 一昨年ベルリンへ旅行した際、タクシーの運転手さんが「旧東独の人間は、もらうばかりだ」と口角泡を飛ばす勢いで、喋っていたのを思い出した。
 ドイツ人を含めたヨーロッパ人は、何事にもせっかちな日本人と違って、物事は一朝一夕に出来上がるものばかりでないことを知っている。オランダ人の不屈の灌漑工事しかり、ドイツ人の経費と時間を掛けた環境保護しかり。その彼らも成果を望んでいる。
 壁の崩壊から10年。国政の努力は続けられている。旧東も旧西も、どちらのドイツ人も「昨日よりは今日、今日よりは明日」、文句を言いながらも、少しずつ前進していることを信じているだろう。先日、一緒に食事をしたドイツ人の船長さんは「ここまでくるのには時間が掛かった。これからも少しずつ時間を掛けて良くなっていくだろう」と語っていた。
 ドイツの片隅に住む外国人の私もそう願っている。
(ブレーメン在住)

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ゴミ分別収集 99.08

 ドイツで暮らし始めるにあたり、まず、気になったのは、かなり厳しいと聞いていたゴミ分別の方法だった。
 例えば、日本なら当然海が汚れ、空気に悪臭が漂っているような場所でも、ドイツでは美しい環境が保たれていることが珍しくない。造船所のドック、ゴミ処理工場の周囲が、まるで観光地のように美しかった。この状況では、ゴミ分別の厳しさもさぞやと思われた。
 まず、夫がご近所に尋ねてくれたが、どうも要領を得ない。いい加減に処理して「あそこの日本人はだらしない」などと言われてはマズイ。
 ミネラルウォーターの容器をスーパーマーケットで回収する方法は、すぐに分かった。
 空になった容器を持参し、買い物した分からその代金を引いてもらうという方法で、容器の代金が中身よりも高いため、回収率は抜群だ。
 瓶や紙については専用のコンテナーが街のあちこちに設置され、リサイクル可能なゴミを入れる黄色い袋の表面には「これこれの物を入れて下さい」と説明されている。
 家庭から出すゴミ箱は決まっていて、茶色のと灰色のがあり、前者は卵の殻や茶がらなど、腐葉土になるゴミを入れる。問題は灰色のゴミ箱で、入れてよい物と悪い物が分からない。
 在住の日本人にも尋ねてみたが、細かい点を思いつくたびにいちいち尋ねるのも気が引ける。一瞬、いい加減に処理してしまいたい誘惑に駆られたが、市当局による厳重なゴミチェックの結果、違法行為(ではないけれど)がバレて、街から追放される光景が脳裏をよぎり、やはりもう少し努力することにした。こうなったら実地調査だ。
 最初は勿論、住んでいるアパートの共同ゴミ箱から開始。だが、ゴミ袋の中がよく見えない上、どうもリサイクル用のゴミまで捨てられている様子だ。ルールに厳しいドイツ人に限って、と思った私は、いよいよヨソ様のゴミ箱漁りを開始。傍目には気持ちのいい午後の散歩に見えることを願いながら、人がいない時を狙ってゴミ箱の蓋をぱっと開けて中身をチェックすること3回。
 駄目だった。その時の私は完璧に怪しい東洋人である。警察に通報でもされたらとビクビクして一瞬しか見ることのできなかったのが敗因だ。
 結局、英語の分かる隣人に尋ねたところ(最初からこうすれば良かったのだが、英語が貧弱なので避けていた)、地域によって違いはあるが、ここまで説明してきた分別ゴミ以外は、全て灰色のゴミ箱に捨てて良いのだそうだ。そして、私が見た通り、捨てるべきでないゴミまでそこに捨てる人もいるらしい。
 恐れていたほど細分化されていないので、ほっとした。どこの国にもちょっといい加減な人間がいることも分かった。
 とは言え、日本よりも分別と処理が進んでいるのは事実。環境保護のために注ぐ情熱と潔癖さ、そのシステムなど、学ぶべきは多い。
(ブレーメン在住)

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アウトバーン 99.07

 夫の運転で、その頃住んでいたロッテルダムから、ハンブルクとブレーメンに行ったのは、2年前の夏のことだった。
 ヨーロッパに来て間もない頃で、初めて行く街に対する期待にワクワクしていて、その前に通過しなければならないものについては、全く考えていなかった。ドイツが誇る速度無制限の高速道路・アウトバーンである。
 アウトバーンは1913年、ベルリンに建設された試走道路が発端で、その後ヒトラーによって1万7千キロの建設計画が開始。大戦後も東西ドイツ政府に引き継がれていった。
 便利で無料、道路は広くて渋滞もほとんどない素晴らしい道路だ。その上、速度は無制限。
 という訳で、夫はアクセルを踏み込み放し、私は緊張しっ放しとあいなった。
 棒のようになってフロントガラスを眺めいていると、泥のはねたような汚れが付いていく。原因はガラスに衝突して破裂した虫。スピードメーターは180キロをマーク。勿論私には初体験のスピードである。
 しかし、周囲の状況は厳しかった。追越車線の車に限らず、後続車が何台も我々を追い抜き、視界から遠ざかっていった。「死ぬ気か」と言いたくなる走りっぷりだ。
 その上、彼らは車間距離を空けない。最初はあおっているのかと思ったほどだが、くっついて走るのは普通で、少し車間距離を置くと、すかさず割り込んでくる。
 その結果、彼らは時速200キロ前後で団子状になって走るという離れ業をこなす。ひょっとすると、自動車教習所では、「高速道路お団子走行」という科目があるのかもしれない。
 ちなみに、誤って反対方向からアウトバーンに進入すると、道路情報がその車を「幽霊車」と呼んで注意を促すそうだ。昔、流行った漫画の主人公が「お前はもう死んでいる」と言っていたのを思い出される呼び名だ。
 死んでいると言えば、夫はある冬の夜、道を間違えたために凍死の危険に陥ったことがある。
 道路案内は、300キロ以上の遠方の都市まで表示され、見易い位置に置かれているので、便利な上に、見落とすことも少ない。しかし、夫は見落とした。
 そこで、そろそろ給油の必要もあったので、次のスタンドで給油して、道も聞くことにした。
 しかし、行けども行けどもガソリンスタンドが無かった。マズイと思ったときは手遅れで、ひき返すこともできず、道路上で動けなくなる前に休止所に入り、トイレに寄ったドイツ人に助けてもらうことができた。
 冬のドイツでは、ガス欠で暖房のつかない車は棺桶と大差ない。道を間違えたら面倒でもすぐ引き返し、道筋によっては早めに給油しておいた方が良いだろう。
 おや、アウトバーンの悪口ばかり書いてしまった。
 いやいや、一度走ったらその快適さと便利さにやめられないのがアウトバーンなのだ。ホントウです。
(ブレーメン在住)

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ハンザ同盟 99.06

 北ドイツのブレーメンで暮らすことになり、引っ越す前に転入先のアパートを見に行った。すると、街を走る車にHBのステッカーが。その時、初めてこの街を訪れた2年前を思い出した。
 ドイツ人に聞くと、HBとはハンザ・ブレーメンの頭文字だという。ドイツには、この他にもハンザの名を冠する都市があるとのことで、歴史の断面としてではなく、現在もその誇りと精神的伝統を忘れない姿勢に、新鮮な感動を覚えたものだ。
 ハンザ同盟と言えば、私にとって歴史の点数を稼ぐ言葉以上のものではなかった。そもそも、13世紀から17世紀にかけてドイツを中心に北ヨーロッパに広がった貿易都市の連合体で、商業上の結束は非常に固かったという。
 国家権力に支配されず、自主性を重んじたハンザ同盟はそれだけの実力を備え、自信と誇り、そしてそれを守る気概を持っていた。
 その1つ、ハンブルグはドイツ最大の港湾都市で、街としてもかなり大きく、現在も大きな経済力を持っている。海運や船舶に関する博物館が多く、ファッショナブルで高級な商品が並ぶ。レストランも多く、鉄道は大きくて立派だ。
 その昔、ハンザ同盟の中心であり、最も華やかな都の1つとして古くから通商を行ってきた活気と、経済的成功を伺わせる。ヨーロッパの大都会の例に漏れず、ジプシーが多いのが玉に傷だけれど。
 ブレーメンは、ハンブルグに続く第二の港町だが、前者に比較すると、こぢんまりとした印象だ。繁華街の中心の広場には、例のブレーメンの音楽隊の銅像が立つ。
 広場の隅っこにちょこんと小さく立っていて、何となく拍子抜けしてしまうが、観光客が触っていくのだろう、銅像の下の部分はピカピカだ。
 一見、おとなしやかなこの街には、実は色々な分野での先駆的研究所があり、地域経済の中で大きく活躍。ドイツの中でも、ハイテク産業の中心地としての地位を確立しているという。
 しかし、それらの施設は中心地から離れているので、街を歩いていると、そういった近代的な面より、伝統的な職人芸に裏打ちされた優美な工芸品の店や、美しい街並に目を奪われる。
 現在、ブレーメン中央駅は改修工事中だが、そのやり方はいかにも古いものを大事にするヨーロッパらしい。壊して作り直した方がずっと簡単であるにもかかわらず、外壁を完全に残して工事を行っている。近代的な明るさと機能性を、古く美しいものを犠牲にすることなく手にいれようとしているのだ。
 ハンザ都市だからというわけではないが、自分たちの街の伝統を大切にしているのが強く感じられる。何年過しても、現代のハンザ精神がどういうものか、分からないかもしれない。しかし、少なくともその誇りを忘れない街で暮らすのだと思うと、楽しみである。
(ブレーメン在住)

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